ぶぜんやかせつてんぽ
矢絣夏版
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画家 第三十六回(最終回)
「なるほど」
「不思議だと思いませんか。ゴリラの着ぐるみを着た人物が画面を横切るんですよ。しかも、真ん中で立ち止まって、両手で胸を叩く。そんなことまでするんですから、そんなもの、嫌でも見えるだろうって思うじゃないですか。わたしは目が見えませんから、そのビデオを見て、自分で確かめることができないのが残念ですけど」
 男性は、そこまで言って、休むようにしばし黙った。
 そして、再び口を開いて、言った。
「実はこの実験のことは――」
 男性がそう言うと、彼の目の前のイメージにぼんやりと明かりが灯り、ほんのりと温かくなるような感じがした。彼はそのイメージを描き足すべく、急いで鉛筆を走らせた。
「妻がわたしに話してくれたんです。わたしは目が見えませんから、ラジオやテレビを『聴く』以外に、妻が本を読んでくれたりもするんです。妻はそのビデオを見て、自分でも試してみたそうです」と彼はやや照れ臭そうに言った。
「やっぱりゴリラは見えなかったんですか?」
「いえ、見えたそうです」
「へえ、なかなか観察力が鋭いんですね」
「うーん、どうなんですかね。観察力が鋭い、というよりはむしろ、鈍いんじゃないですか。注意力が散漫だから、バスケットボールに集中していられなくて、ゴリラが見えるんじゃないんですかね。バスケットボールに集中してたら、やっぱりゴリラは見えなくて当たり前で、画面全体をぼんやり見てないとゴリラは見えない。そういうものなのかもしれませんよ。妻が言うんですよ。ゴリラが出てくるって知ってても、気づいたときには、もうゴリラは画面の真ん中にいて、胸を叩くところだったって。だから、もしゴリラが出てくるって聞かされずにビデオを見てたら、気がつかなかったかもしれない。そう言ってました」
 男性の似顔絵が出来上がっていた。
「できましたよ」
「へえ、けっこう早いんですね」
 退屈な時間は長く感じられるというが、楽しい時間は短く感じられるという。男性にとっては楽しい時間だったということだろうか。
「帰って、妻に感想を聞かなくっちゃ」
 似顔絵を受け取りながら、男性は嬉しそうにそう言い、画料を払って帰っていった。
 彼は男性と向かい合っている間の幻想的な体験をあれこれと吟味した。確かに目が見えないことの苦労は相当なものかもしれない。しかし、男性はそれと引き換えになにかを得たのだ。将来あのように老いることが出来たら、それはかなり幸せなことかもしれない。
 企画展はその後、二週間ほど続いた。
 盲目の男性には自分がどんなふうに見えていたのだろうか。雑誌編集者の男にはどうだっただろう? そして、小学校の「図画工作」の時間に二人組を作ってお互いを描き合った同級生には? あのころ、あの同級生は自分の中になにを見ていたのだろうか。
 彼は自画像に取り組むことにした。考えてみれば不思議なことだが、彼は自画像を描いたことがなかった。自画像を描くことなど、それまで考えたこともなかった。そして、鏡を前にして気づいたのだが、彼には自分自身のイメージが見えなかった。
 一向に自画像が完成しないまま、かなりの歳月が流れたが、ある日、女性から肖像画の依頼が入った。彼女が彼のアトリエを訪れたとき、彼はひと目で彼女が自分の妻になるのだと分かった。